果てせなかった自分の思いを子どもに託したいが、私以外の家族は反対。私の考えは間違っているのか
目次
結論:子どもの意思決定を尊重する
現在、私立の幼稚園に通っている5歳の娘についての相談です。
私たち夫婦は関西出身で、2年半前に東京に転勤してきました。
私は子どもが生まれたときから、子どもの小学校進学は私立と決め
ており、じつはその時期が近づくにつれて、悩むようになってきまし
た。
夫は子どもの小学校受験に反対ではありませんが、積極的に賛成
しているわけでもありません。
ところが、私の家族がこの受験に大反対なのです。
「私立に行かせるのは中学校からで十分。小学校は公立へ行って、社会を知らなけれ
ばならない」というのです。
私自身は何の準備もしないで「お受験」し、不合格でしたが心に傷
は残らず、高校・大学とキリスト教系の学校に進みました。
このような経緯から、私自身が「小学校から私立」に憧れているのかもしれま
せん。
子どもを私立小学校に行かせたいという私の考え方は、間違ってい
るでしょうか?
進学先について子どもにきちんと説明し、幼くても子どもを意思決定に参加させよう。
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「公立か、私立か」は一概にどちらが良いなんて言えない
「私立がいいか公立がいいか」は、個性の違いや学校や先生との相性
もありますし、一概には言えないと思います。
わが家では中学校から私立が3人、国立が1人でしたが、確かに校風
やその学校がもつ教育の伝統から受ける影響は、小さくないと感じてい
ます。
しかしそれ以上に、どのような先生方と巡り会うかのほうが、受ける
影響の比重ははるかに大きいと思われます。私立校のほうが教えるのが
上手で、教育熱心な先生が集まっているとはかぎりません。
私はわが子4人の公立小学校の先生方の教育にはとても感謝し、満足
しています。親の私まで学ぶ機会をたくさんいただきました。
教育は誰のもの?
拙著『一流の育て方』(ダイヤモンド社)は、一部は私の子育ての反
省記でもありました。
なかでも目から大きなウロコが落ちたのは、単に「偏差値が高い」というだけではなくて、真の意味で優秀な子どもたちに共通していた「親に感謝する家庭教育」の内容でした。
教育の目的は、親の叶えられなかった夢の実現でも、評判のいい学校へ行くことでもありません。
どの学校へ行くかは、親子で話し合って、子どもが納得して決定する教育が貫かれていたことでした。
本書で紹介した、彼・彼女たちは幼いときから、幼稚園はどの幼稚園へ行くか、習い事を始めるか、始めるなら何を習うかなども、選択権を子どもに委ねる家庭教育がなされていました。
親は子どもがそれらを選択できるよう自立心を養い、選択肢を提示し
たりはしますが、あくまで決断するのは本人です。
「どの学校へ行きなさい」ではなく、「この勉強をすれば、こんない・
いことがある」ことを読書や体験で学ばせ、「この職業に就きたいか
ら、この勉強をする」と自主的に学ぶようになる、ビル建築でいえば、
基礎工事に重点を置いた教育でした。
このような教育を受けた人たちは、いわゆる地頭がよく、正義感や向上心があり、誠実で、チャレンジ精神に富んでいる人が多いと感じました。
そして、自分が何に向いていて、何がしたくて、何をすることが自分
にとって幸せかを知っています。
自己を実現する努力がそのまま幸福の実現であり、達成感を経験し、それが社会貢献につながり、そのことが幸福だという好循環を彼らの多くに見ることができました。
また、彼らはこのような教育をしてくれた親に、成人後もとても感謝していることで共通しています。
小学校受験の目的を、親子で共有することが大切
結論ですが、親が子に夢や希望を託し、さまざまな選択肢を示したりするのは、最終決定者が子ども自身であるかぎり、少しも悪いことではないと思います。また、夫婦や親戚で、家庭教育に対する意見が違ってもいいと思います。
ただし、「教育を受ける子どもがそっちのけ」で言い争うのは賛同できません。
さまざまな意見も、子どもの視野の広がりや選択肢のひとつとして提示できる形とし、最終的には子どもに判断させて責任をもたせ、決まったあとは全員で応援するという体制であるべきです。
雨の日も暑い日も、子どもが貴重な人生を費やして通学するのですから、本人が納得できるだけの理由と、それを家族で共有することが重要です。
漠然とした憧れから始まったとしても、受験の動機や目的を親子でしっかり共有できるよう話し合い、お子さんが納得することを第一に考えてください。
[このケースに学ぶ3つのポイント]
- 「公立小か私立小か」は、本質的論点ではない。
- 教育は親のためにあるのではない。子どもに無断で進路を決めてはいけない。
- 子どもの受験や進路は、動機や目的を親子で共有できるかどうか、十分に話し合うこと。